ふるさと再発見!本圀寺事件から150周年 イベントのご紹介
今からさかのぼる事150年前(文久3年 江戸幕府の末期)、京都本圀寺において鳥取藩の若き22人の藩士による一大決起事件がありました。
今年はその「本圀寺事件」から 150 年の節目にあたり、それにまつわる各種イベントが開催されますので、ご紹介いたします。(本圀寺事件に関する詳細は、下部に記載)
【因藩二十二士・本圀寺事件150年記念講演会】
平成25年9月20日(金)15時~ 日野町文化センターにて
(詳細:鳥取県ホームページ『とりネット』 http://db.pref.tottori.jp/pressrelease.nsf/0/F5637D56B699AB3749257BDB002EE9C1?OpenDocument )
(画像をクリックするとチラシをご覧いただけます)
【因藩二十二士・本圀寺事件五烈士供養法要 並びに150年記念碑除幕】
平成25年9月21日(土) 泉龍寺にて(日野郡日野町黒坂)
13時~ 因藩二十二士・本圀寺事件五烈士供養法要
14時~ 記念碑建立イベント
・麒麟獅子
・演舞 心形刀流
・記念碑 除幕
(泉龍寺ホームページ http://www9.ocn.ne.jp/~senryu/ )
【ふるさと再発見生涯学習講座「幕末鳥取藩二十二士の軌跡に迫る!」】(バスツアー)
鳥取発:平成25年10月5日(土)
米子発:平成25年11月26日(火)
(主催:鳥取県立生涯学習センター(県民ふれあい会館)ホームページ http://fureaikaikan.jp/ )
(画像をクリックするとチラシをご覧いただけます)
本圀寺事件・因藩二十二士とは?
江戸幕府の末期…当時、水戸藩主徳川斉昭の第5子徳川慶徳公が、鳥取藩池田家を嗣ぎ、16歳で鳥取藩に入ったのは嘉永5年(1852)のことでした。その翌年より黒船の来航が激しく、ついに幕府は勅許を待たずに開港、通商条約を結んだので、幕府に対する非難は激しく、尊王攘夷論は討幕運動に発展していきました。
鳥取藩でも慶徳公はむしろ穏健な尊王攘夷の主義主張を抱いておりました。このころ攘夷祈願のための天皇の大和行幸を願う天皇親征論が台頭してきました。この親征論について慶徳公はきわめて慎重にして時期尚早論であったため、大いなる曲解を受け、慶徳公を中傷する張り紙が出されました。
この事に、鳥取藩でも天皇親征論の急進論者であった河田佐久馬以下の志士は大変驚き、協議の上、慶徳公の疑いを晴らすには側近である黒部権之助以下5名を斬る以外にないと判断しました。そして文久3年(1863)河田以下22名は京都本國寺の因州本陣に侵入し、黒部以下4名を斬り殺すという『本圀寺事件』を決行しました。
その後、うち1名は自殺し、1名は行方不明となり、残る20名は日野郡日野町黒坂にある泉龍寺他2ヶ所の寺に8か月間幽閉されました。彼らは心身の怠情にながされることを恐れ、高い理想を持ち、剣術・柔道の稽古に専念し、歌を詠み学問をし、文武両道に精進しました。近隣の青少年にも武術や学問を教え、勤王思想の普及にも努めたので、20士の高風や人格を慕いやってくる者が少なくなかったそうです。
(瑠璃高山泉龍寺ホームページより抜粋)